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(評者:草薙玲(くさなぎれい) / 編集者・ライター)
■人生の苦しみから脱出するには“わがまま”であれ
わたしは、東京の出版社で働くしがない編集者です。40歳を目前にしたある日のこと、突然うつ病になりました。第一子を授かった1年後、職場復帰してすぐのことです。子どもを寝かしつけても、自分は全く眠れない。育児、仕事で、何か失敗をするたびに、心に泥のような悲しみがへばりつき、身体が鉛のように重く動かないこともありました。窒息しそうなほどの胸の苦しさに耐えられず、真冬の空の下、家族を置き去りにして薄着で家を飛び出し、「このまま車にひかれてもいい」と、しばらくの間、路上にうずくまっていたこともあります。鈍感な夫でも、さすがに妻の異変に気づいたのでしょう。奇行に及んだその日の夜、わたしは夫に「会社に相談した方がいい。ぼくはできれば休んでほしい」と懇願されました。それから、休職するまではあっという間でした。淡々と引き継ぎを終わらせ、あれほど、わたしがいなければこの仕事は回らないと思っていたのは、完全なる誤解だったと知りました。会社の歯車は、いくらでも替えがあるのです。
会社を休んでしばらく経ってからのこと、薬を飲んで回復傾向にあるわたしに友人が「草薙さんに読んでほしい」と、ある本を手わたしてくれました。それが、『ふりまわされない自分をつくる 「わがまま」の練習 心の中に線を引けば全部うまくいく』(谷地森久美子著)です。きっと、友人はわたしの主体性のなさに、うつ病になった原因があると思っていたのでしょう。実際、わたしは他人の意見に流されやすく、周囲の目を過剰に気にする人間でした。相手に合わせ、自分を殺し、生きてきたのです。それが、世の中をうまくわたる処世術だと信じて疑いませんでした。ましてや、わがままになるなんてあり得ないと思っていたのです。
しかし、本書で提唱する“わがまま”は、わたしが思っていたものとは、だいぶ違っていました。わたしは自分の意志を無理に押し通せば、相手が不快な思いをすると思い込んでいたのですが、谷地森氏が提唱する“わがまま”は、相手の意志を尊重しながら、自分の意志を隠さずに伝えるコミュニケーションの一手段であり、境界線の引き方を学べば、自分らしさを失うことなく、相手と良好なコミュニケーションが取れるというのです。そんなことができるなら、どんなに心が楽になるだろう。わたしは胸を躍らせながら、ページをめくりました。
■自分らしさを失わないコミュニケーションの取り方とは?
谷地森氏の境界線の引き方は、いたってシンプルなものでした。たとえば、身近な人がいつも不機嫌で、嫌な気持ちになったとします。そういう時は「不機嫌なのはその人の責任、自分の責任ではない」と責任に境界線を引いてみるそうです。わたしも働いていた頃、パワハラ上司の浮き沈みの激しい気性によくふりまわされたものです。朝、不機嫌な上司の顔を見るたびに「相手を不機嫌にさせる自分が悪いのだろう」と自責の念に駆られましたが、あの時、「あの上司の不機嫌は自分のせいではない」と思えたら、どんなに気楽でいられたでしょう。上司との間に適度な距離感が生まれ、コミュニケーションが円滑に進んだかもしれません。そして、谷地森氏は、境界線を引いたあとに気づく、自分があるべき姿、秘められた要求こそが、心の奥底に隠された“わがまま”な部分だと説きます 。わたしも「相手の不愉快な態度のせいで、自分がふりまわされたくない」と気づき、もっと毅然とした態度を取ることができれば、無用なパワハラを受けずに済んだかもしれません。
境界線を引く基準は他にもあり、安全・健康という基準で引けば、働きすぎを考え直す契機になりますし、「会社を辞めてもいい」という強い覚悟を境界線として引くことで、ハラスメントから身を守ることもできます。わたし自身、会社を辞める覚悟で休職に踏み切ったことで、今の平穏があると思っています。気づかぬうちに境界線を引けていたのかもしれません。そう考えると、“わがまま”とは、自分が最悪の状況に陥らないための防衛手段であり、境界線とは荒波から守る防波堤のようなもの、のように思えてくるのです。これ以上、自分を苦しめなくていい、もっと自分を愛して自分を守ってほしい。そんなエールを本書の端々に感じました。
本書には、ワンオペ育児に苦しむワーキングマザー、ブラック企業でパワハラを受けた会社員、彼女の束縛に不満を抱きながらも別れられない男性、夫のDVに苦しむ妻など、さまざまな悩みを抱えた人が登場します。30年間、心の専門家として4万件におよぶ相談を受けた公認心理師・臨床心理士の谷地森氏が、彼らの悩みに向き合い、問題の本質を解き明かしていくのですが、まずは、自分の悩みに近いものを探して、基準となる境界線を引く練習をしてみるといいと思います。また、コフート、アドラー、ユングなどの心理学を平易に解説しながら、“わがまま”になるための簡単な練習法も多数収録されています。わたしの場合は、相手に自分の気持ちや要望をうまく伝えるアサーションの手法が大変役に立ちました。「わたしは」という主語をつけて、自分の感じていること(feel)、してほしいこと(want)を、できるだけ温和な表情や雰囲気で伝えるというものです。ワンオペ育児のつらさを夫に嘆いてばかりの頃は何の変化もなかったのに、アサーションで家事・育児の負担割合を減らしたいと伝えたところ、いまでは率先して家の掃除や朝食準備をしてくれるほどになりました。本書を読んだ方は、ぜひ実践してほしい練習法です。
■中年の危機をどう乗り越えるか
もうひとつ、本書がテーマにしているのが中年の危機。35歳をすぎると、子どもの自立、介護問題、職場環境の変化、健康上の不安など、これまでの人生観を揺るがすような危機が噴出し、今後の生き方に戸惑い、悩み苦しむ時期に突入します。しかし、谷地森氏はユング心理学をもとに、中年期に起きる危機こそ、主体的に“わがまま”に生きるチャンスだとし、自分の心の内面に目を向け、弱さやつらさに光を当てる作業が必要だと言います。私も40歳を目前にした、まさに中年期の人間です。肌にハリツヤがなくなり、白髪が増え、体力がなくなってこれまでのような働き方ができなくなり、高齢の両親を抱え、ワンオペ育児に苦しみ……。挙げればキリがありませんが、自分の現状、弱さをしっかりみつめ、いまを生きることが大事、と谷地森氏は語りかけます。わたしの弱さとはなにか、自分にはまだわかりませんが、親に愛されなかった過去がカギになると思っています。それがはっきりわかったとき、自分の長い“お休み”は終わるでしょう。
最後に、自分らしく生きるには、周囲の支えも大切です。本書では、周囲のサポートの仕方だけでなく、サポートしている側が燃え尽きないための方法も紹介されています。あなたの周りにいる大切な家族、友人、愛する人のためにできることはないか、悩んでいる人にも読んでほしいと心から思います。わたしはというと、枕辺に本書を置いたところ、夫がページをめくった形跡がありました。それも何度も。夫に変化があるのか、それはわかりませんが、楽しみに待ちたいものです。
(了)
▼谷地森久美子『ふりまわされない自分をつくる 「わがまま」の練習 心の中に線を引けば全部うまくいく』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
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[レビュアー]草薙玲(編集者・ライター)
KADOKAWA カドブン 2020年3月27日 掲載
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April 03, 2020 at 10:00AM
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